201507/06

音楽歴史・偉人

音楽歴史・偉人紹介 ビートルズ編⑤

第五回ビートルズとは一体何だったのかをご紹介します。

世界史で見るビートルズとは



資料「ザ・ビートルズ・アンソロジー」を基に話を進めていきたいと思います!

4人ともひげを生やしています。さきほどまでの可愛らしかったビートルズから3年後、これが1967年のビートルズです。人前に立つのはもうやめて、スタジオで「いまだかつてない音楽」の制作に取り組んでいます。ポールが説明して、こんなことを言っています。
「自分たちが世界を回らなくても、丹精込めて音楽をつくって、それを世界に放出すれば同じじゃないか」と。



それまで、ポップスのLPと言えば、シングル曲のコレクションか、ミュージカルの挿入歌集みたいなものばかりでした。一つのトータルなコンセプトにもとづいてLPを作っていくなんて前代未聞です。だから、「ペパー軍曹のロンリー・ハーツ倶楽部楽団」(Sgt.Pep-per’s Lonely Hearts Club Band)というアルバムが出てきたときには世界は騒然としました。ジャケット・デザインがまたすごくて、音楽ファンだけではなく、新しい文化を担っていこうとしている世界のアーティストに、このアルバムは広く刺激を与えたのです。
収められた歌の意匠、特にサウンドの編集がふつうじゃなかったのです。ものすごい凝りようです。
ビートルズの前には、すばらしいおもちゃがありました。おもちゃといっても、当時としては最高の録音技術です!彼らはもう、遊びたくて仕方がなかったです。それは現代人も変わりませんよね!リフレクトスタジオでは録音環境も整ってますので、いろんな機材を録音してみて試してみてはいかがでしょうか!

そしてビートルズは、当時のコーチもしっかりしていました。ジョージ・マーティンは、クラシック音楽にも通じた意欲的なプロデューサーです。マーティン氏を含む5人がスタジオにこもって、ああでもない、こうでもないとやっているところは、5人みんながすごく突っ走ってる感じのとてもいい表情をしています。
彼らは貧しい育ちで、下積みも長かったけど、社会の権威に迎合せずに、自分の好きなことを続けてきて、それでセールス的にも空前の記録を打ち立ててしまった。いまや何をやってもニュースになる、当代1のセレブです。売れるために画策する必要もない、したがって誰にも、ビートルズを制御するなんてことはできない。彼らが、思いついたままをやると、世界がとても良い反応を見せるのです。
これらの資料を読み進めていくと、それまで存在しなかった種類のスターが、それまで存在しなかったテクノロジーを前にして、新しさに興奮する若い世代に向けて、新しい音楽を差し出そうとしています。ビートルズ好きにとってはメロメロになるぐらいすごいことですね!
リフレクトスタジオでは録音環境も整ってますので、いろんな機材を録音してみて試してみてはいかがでしょうか!



このあとも、探究は続きます。翌年に出た2枚組のアルバムでは、各自がほんとうに、いろんなことにチャレンジしています。1967年、68年、69年という頃は、しかし、政治も文化も、ホットに燃え盛っていました。戦争、反戦デモ、暗殺、暴動、集会、カルト、コミューン、アングラ。ビートルズも音楽だけじゃなく、混沌とした文化全体にからみ、そんな中で、各自バラバラの道を進むようになっていきます。そして解散します。ビートルズがバンドとして、世界に君臨したのは、6年間ほどのことでした。

今度は成功前のビートルズについてまとめていきましょう。
ドイツのハンブルクに出稼ぎに来ていたころの彼らです。リンゴはこのころまだ、リヴァプールの別のバンドにいました。ハンブルクという街は、同じ港町でもリヴァプールよりかなり大きく、船乗りやら外国人労働者やら、気性の荒い連中がいっぱいいて、夜の歓楽街が発達していました。

ロックンロール誕生





ビートルズがここに最初に出稼ぎにきたのが1960年の8月、ということはポールがかろうじて18歳ですね!ジョージなどは、こんな、酒を出してストリップを見せるみたいな店にまともに入れる年齢じゃなかったわけです。
じゃあどうして彼らはこんなところに来たのでしょうか。刺激があって、楽しそうだったからでしょうか。そうではなく、仕事にありつけたからです。
ロックのようないかがわしい音楽をやりながら食べていくには、こういういかがわしい場所に来るしかなかったのです。いや、ここも、めちゃくちゃきつい仕事だったのですよ。夕方、店に来て演奏を始めると夜中まで、6時間も7時間も働かされる。くたびれて眠くなると、一種の覚せい剤みたいなピルを渡されて、それでまたギターをかき鳴らし、歌い続ける。1960年にロックンロールをやって食べていくという事は、そういう過酷なことだったのです。

当時ロックはいかがわしい音楽でした。ロックンロールは黒人がやってた音楽に不良少年が飛びついて流行らせた音楽であり、そんなものはちゃんとした文化ではなく、大人の基準からすれば、ストリップと一緒みたいなものだったのです。
そういう考えって、みなさんも実感できますか?今、黒人を見ると、ふつうの高校生も、なんかかっこいいという気になりますよね!踊ると違うし、歌っても違うし、話し方もかっこいい。50年前も、そう感じる白人は、ごく少数ながらいました。日本人もいなかったわけではありません。ともかく黒人たちに由来する音楽をビートルズは始めたわけです。そこが重要です。価値がない、劣等、精神の堕落につながるとして蔑まれていたものに飛び込んで、そこから浮上してくる人たちが、時代を変えることができたのですから。
「劣等な」音楽、というか「音楽以下」だったものが、どのようにして、世の中を動かすようになったのでしょうか。

ロックンロールはまずアメリカで社会現象になりました。1955年。「ロック・アラウンド・ザ・ロック」という曲が、「暴力教室」という映画のテーマソングになって、大当たりです。音楽業界を揺るがす大事件になりました。いや揺らいだのは音楽業界だけではありません。何が揺らいだのか。それを考えるのが今回のまとめの目的になります。
いま映画の題名を「暴力教室」といいましたが、これは日本でつけた名前です。原題はBlackboard Jungle。「黒板の密林」になります。
「暴力教室」というのは、不良学生の行動に手を焼く先生たちの言葉ですね。ネガティブなイメージです。それが「密林」になると、ちょっとワイルドでエキセントリックな感じになる。ドラムに合わせて踊りたくなる。ロックする生徒たちの心の様子を表す言葉になるわけです。
今回の核心に近づいてきました。1950年代アメリカで、10代の少年少女を気持ちよくさせるような方向に、歴史がうねりはじめました。そのうねりを音楽の変化が、とてもよく表しています。
今回はここまでにしたいと思います!次回は曲を例にロックンロールとは?についてまとめていきたいと思います!

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